栽培された米はほとんどがウルチ米でしたが、モチ米もありました。ではこれらの米をどう調理して食べたのでしょう。考古学では稲作が行われた当初はコメを煮て調理し、のちに蒸す方法にかわり、さらに中世になって釜で炊く方法へと戻ったといわれています。
確かに出土する弥生式土器には飯のこげつきやおねばのふきこぼれたあとの残ったものもありますが、それは粥を炊いた時のもので、飯はやはり蒸したのではないかと思われます。
肌の弱い素焼の土師器の堝(こなべ)ではいったん焦げますと再びその土器を使うことはできません。もし土器で米を炊いたのならその焦げつきをどのようにして防いだのでしょうか。下から湯を沸かすのには土師器を使い、米を蒸すこしきは、より丈夫な須恵器で作って上に置く使いわけ技術が伝わるのは五世紀になってからのことです。そこで土師器のこしきで試したところ能率が悪くて時間がかかり、燃料もたくさん要りますが、水を打ちつつ蒸す方法をとると失敗がなく、安定した飯が作れます。もしかすると木製のこしきが弥生時代にあったのかも知れません。奈良時代になると鉄の釜や木製の曲物のこしきが使われています。釜はかまどにかけるものもあったのでしょうが、かなえといって足のついた釜が使われました。この頃平城京に勤める官吏には給食が支給され、これら大勢の人たちのために飯を炊くのに土堝ではこと足りず、大きなかなえに湯を沸かし、曲物の大きなこしきに洗った米を入れ、水をふりかけながら蒸し上げたのです。その強飯を大きな櫃に移し、めし椀に高盛りにして給仕したのです。ウルチ米で実験をしてみましたが、約1時間で上出来の強飯ができます。
一方、粥も寺院の僧侶たちの供養料として炊かれました。疫病の食餌療法として病人たちに布施もしました。
粥には水分の多い汁粥と水分の少ない厚(かた)粥がありました。平安時代になると粥にアズキやソバの実、アワ、焼グリ、野菜を加えたものがあらわれ、そのほかにアワビやカツオ、ワカメなどを加えた新しい粥も登場します。しかも味噌で味つけした“みそうず”なども生れました。
一方、固粥は飯としての姿を見せはじめ、蒸して作る強飯に比べ、柔らかいので姫飯とよばれるようになります。平安末期を経て中世に入り鉄や高温で焼いた陶器や瓦器の釜が普及すると(平安末期から鎌倉初期にかけての遺跡といわれている愛知県知多半島の椎の木山古窯部からつばつきの土製釜が出土している。これが、今日にもひろく使われている羽釜の祖型と考えられている。)、ウルチ米は炊いて飯にされ、炊いても飯になりにくいモチ米が強飯として残り、儀式の時などの食べ物になるのです。その二つの流れが現在まで受けつがれているわけです。