もともと、すしは東南アジア起源の外来の魚の加工法で、日本へは稲作の伝来とともに中国から伝わったとされています。魚貝類や畜肉(イノシシやシカ)を強く塩にまぶして米飯のなかに何か月も漬け込んでおくと、飯が糖化して乳酸発酵をし、独特な酸味が生じます。その間に魚肉などの動物たんぱく質は自己分解してうまみとなり、そして、この乳酸がしみ込んで保存性が高まり、おいしく食べられるようになります。つまり動物性たんぱく質の貯蔵法の一種です。この場合、飯は漬け床であって食用にするのではありません。このすしを日本では「なれずし」とよんでおり、現在でも滋賀県琵琶湖沿岸地方で作られるふなずしは、このなれずしの原型をよく伝えるものと考えられています。なお他方、飯に麹を加えて、塩漬けした魚肉などを発酵させるかぶらずし(金沢の特産)などは、いずしとよばれる別の系統のものです。
なれずしは古代には朝廷への貢ぎ物として利用されていました。奈良時代には近江や若狭の国からアワビやイガイ、タイのすしが貢納された記録が残っています。平安時代に入ると、この地以外にも西日本や東海の各地からアユ、フナ、サケ、アワビ、イガイなどいろいろの種類のなれずしを、それぞれ租税として納めるよう命じました。都に集められたすしは朝廷の貴人たちに分配されましたが、とても庶民の口に入るようなものではなかったのです。しかし、なれずしを作るという行為のなかに、日本人が酸味を愛着する嗜好が横たわっていたことは見逃せません。もともと東南アジアのメコンの平野部の稲作地帯で発明されたなれずしは淡水魚を使っていましたが、日本に伝わり海の魚や貝類も漬けられるようになりました。ここに握りずしのネタが豊富になる伏線があるのです。
時代も下って室町時代になると、このなれずしは大きな転換を見せるようになります。これが「生なれずし」の出現です。「半なれ」とも呼びます。このすしはなれずしのように長期間漬け込むのではなく、比較的短い期間で漬けあげ、飯に酸味が出るか出ないうちに食べるもので、これだと魚などはまだ生なましいが、飯も食べられます。したがって塩味と酸味のついた飯そのものも愉しまれるようになり、漬け込む材料も魚貝以外に野菜や山菜など、いろいろの種類に広がってきました。すし桶に塩をした魚と飯を交互に漬け、ふたをして重しをすると数日で軽い酸味がしみ込みます。今日、各地に伝わる押しずしや箱ずしの原型です。
こうなると、おいしい物をできるだけ早く食べたいという欲求が強まってきます。特に江戸時代に入って米酢が広く販売されるようになると、手っ取り早くこの酢をふりかけて酸味を作りだせるようになりました。この方法を大いに広めたのが江戸時代・元禄の頃、幕府の御典医を務めた松本善甫だといわれています。これが「早ずし」です。やがて、こけらずしや箱ずし、あるいは笹巻きずしや柿の葉ずしが家庭でもことあるごとに盛んにつくられるようになるのですが、重しをして味をなじませるのに数時間ないし一夜は必要でした。それでも待てない人がおり、そこで、早く食べるために改良されたのが握りずしなのです。握ってすぐ食べる、今風にいえば即席ずし。これのルーツになったのが笹巻きや柿の葉ずし。これらはネタと酢飯を重ねて握り、更に防腐の目的と飯同志がくっつかないように笹や柿の葉で巻き、包む。それを箱に入れて押して味を馴らします。日本料理が完成期を迎える文政の頃、そのすしの着物を脱がせ裸にしたのが両国のすし屋の花屋与兵衛で、煮物なり酢でしめたネタと酢飯を重ねて握りました。その握りは原図を見ると実に大きく、酢飯は今日の握りめしほどあり、食べやすくするために2つ、3つに切って食べました。そのため、小さくなった今日の握りずしも一皿2ケ(貫)、3ケと盛るのは昔の名残りなのです。
この握りずしが気の早い人が多く集う江戸で大いに受け、ついに押しずしや箱ずしにとってかわるようになります。その握りのたねは、明治になっても生物(なまもの)はづけと呼ばれ、しょう油や酢に浸して味をつけました。後に、たねには刺身を使い、煮切りしょう油を刷毛で塗って食べました。それもすし職人が塗ったのです。ネタをしょう油につけて食べるのはつい最近のことです。握りずしの魅力は、自分の好みに合わせたネタで握ってもらう楽しさ、すし職人の手技のよさがみられる面白さ、すぐロに運べるという手軽さと、刺し身のおいしさにあります。総体的に握りずしはネタを重要視し、酢飯はそのネタを越えないよう、ねばりの強い、うまい米を使いません。こういった早技の握りずしではありますが、押す基本だけはきちんと守っています。すしは押しが肝心なのです。