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1米はどこからきたのだろう!?
1-3 伝わったのは縄文時代の終わりころ

 日本では、戦後まもない頃に発掘された静岡県登呂遺跡から水田跡や炭化米、農具が発見され、これにより稲作は弥生時代になって初めて日本に伝えられたと考えられていました。しかし、弥生時代以前にもイネの栽培が行われていたという確かな裏づけが、昭和35年以降、九州地方の縄文遺跡から発見され始め、今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたことは明らかです。それよりも古い時代に原始的農耕が行われた可能性さえあるのです。

 イネが日本にもたらされた最も古い証拠は、縄文時代後期末までさかのぼります。福岡県や熊本県の遺跡の土壌から、この時期のものと推定されるプラントオパール(イネ科植物の葉身にある、ケイ酸を含む細胞)が検出されており、これによってイネの痕跡が確認されています。

表1 縄文時代区分
草創期 早 期 前 期 中 期 後 期 晩 期
B.C. 10,000
 〜7,000年
B.C. 7,000
 〜4,000年
B.C. 4,000
 〜3,000年
B.C. 3,000
 〜2,000年
B.C. 2,000
 〜1,000年
B.C. 1,000
 〜200年
(日本考古学小辞典より)

 やや時代はくだりますが、確実な証拠が九州各地でみつかりました。福岡県の板付(いたづけ)遺跡や佐賀県唐津市の菜畑(なばたけ)遺跡などから、炭化米や土器に付着したモミの圧痕、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路、田下駄等が発見されています。水流をせき止めて調整する柵(しがらみ)もありました。
 年代からというと、菜畑遺跡は今から約2700年ほど前のもので板付遺跡の水田を含む層(晩期終末)よりも、およそ100年以上さかのぼります。このことは、日本における水田稲作の開始が、従来考えられていた時期よりも、さらに200〜400年も前だったことを意味します。
 板付や菜畑における水田では、非常に整備された形で、水稲耕作が行われていたらしく、しかも同時代の稲作を行った痕跡のない遺跡とは孤立した状態で発見されています。こうした点から、すでに縄文晩期には、大陸で稲作を行っていた集団が稲作技術とともに日本に渡来し、稲作をおこなっていたと考えられるのです。
 水田稲作技術が伝わる以前は、イネをアワ、ヒエ、キビなどの雑穀類と混作する農業が行われていた可能性があります。たとえば、菜畑遺跡では晩期の層から炭化米とともにアワ、オオムギといった雑穀類やアズキがみつかっており、同じ時期の長崎県雲仙地方の山ノ寺遺跡、大分県大石遺跡からは、イネの圧痕がみられる土器が発見されています。遺跡が台地に立地することから、谷あいの湿地か畑でイネが栽培されていたのかもしれません。
 以上のように、縄文時代の晩期、九州では灌漑(かんがい)による水田稲作がおこなわれる一方で、畑では陸稲や雑穀類の栽培がおこなわれていたと思われます。しかし、水田稲作をおこなっていた人々と、畑で陸稲栽培をおこなっていた人々の由来や相互の関係については、まだ解明されていません。

 縄文晩期、北九州地方に伝来した水田稲作技術は、その後、弥生時代になって急速に日本列島を東へと伝播し始めます。現在まで、弥生時代の水田は全国で20か所以上見つかっています。最も有名なのが静岡県の登呂遺跡(弥生後期)で、その遺跡から発見されたのが図1−2のような農具です。前に述べた佐賀県の菜畑遺跡では、弥生時代前期の層から大型の水路、堰(せき)、取排水口、木の杭や矢板を用いた畦畔(けいはん)といった大規模な水田遺構物が出土しています。すなわち、この地域では縄文後期から引きつづいて水田稲作が行われていたと思います。


 弥生時代の前期中頃には、水田稲作技術が北九州から近畿、東海地方へと広まっていきます(図1-3)。しかも、北九州から東海地方にかけて、同じような土器文化が見受けられるのです。これは、九州にもたらされた水稲耕作技術が、200〜300年の間に急速に普及したことを物語っています。
 さらに時代をくだると、関東地方のみならず青森県南津軽郡垂柳(たれなやぎ)(中期の中菜)遺跡でも、水田跡が発見されています。弥生時代中期には、北海道をのぞく日本列島のかなりの範囲にわたり水田耕作が行われていたことになります。



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