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2米は日本をどう変えたの?
2-2 米の生産量が増えて日本の人口も増えた

 つぎに、水田稲作が本格的に開始された弥生時代における人口を、遺跡の数から調べてみることにしましょう。弥生時代の人口は日本全体で約60万人、この数字は縄文時代の最大人口27万人の約3倍弱です。地域別にみると、東北や関東地方では縄文時代における推定値とそれほど差がないのに、近畿、中国地方では20倍以上、四国、九州でも10倍以上と著しい人口増加がみられます。縄文時代には東日本に人口が集中していたのに、弥生時代になって西日本の人口が急激に増加し、東日本ではそれほどの増加がみられないというのはなぜでしょうか。
 このことを考えるため、登呂遺跡を例としてとりあげてみましょう。登呂には12の住居跡がありました。1軒あたり5人が住居していたと仮定すると、人口は60人になります。登呂遺跡における水田面積(75.010m2、約7町5反)から米の収量を計算し、毎日全員が3合(約0.4キログラム)の米を食べたとすると、とても60人分の食料をまかなうことができなかったという結果になります。しかも、休耕地や自然災害による減収、12軒以外に別の集落の人も利用した可能性なども考えあわせると、米が毎日のように食べられていたとはとても考えられません。つまり、弥生時代に米が食べられたとしても、その量はかなり少なかったとみなすのが自然です。また、水田耕作がもともと熱帯産のイネを栽培するものであり、イネの栽培には、冷涼な東日本よりも温暖な西日本のほうが、より適していました。これらの点からも、早くから米への依存度が高かった近畿地方を中心とした西日本と、イネ以外の畑作物や堅果類の比率が高かった東日本とでは、生産量の違いによる人口支持力も当然異なってきます。
 古墳時代には、日本全体の人口が約540万と、弥生時代の9倍にも達します。さらに律令時代では、国家的規模での集約的労働力の投下、進歩した土木・灌漑技術、国司の派遣による農業指導、農業奨励政策などを通じて、水稲耕作中心の農業基盤が確立しました。これにより、耕地が拡大し米の生産量が増えるにしたがって、扶養できる人口数も大幅に増加したのです。ちなみに、奈良時代(8世紀中頃)の人口は600〜700万人で、当時の米の生産量は707万石といわれていますから、1人あたり1年間に1石、約150キログラムの米を消費していたことになります。
 水田稲作における耕地拡大や収量の増加は、中世・近世を通じて伸び、江戸時代の人口資料をみると、なんと人口は縄文時代のそれと比較して、約100倍にも達しているのです。縄文時代からの稲作を中心とする歴史をひもといてみると、米を主とする食料生産が、いかに多くの人々を扶養するかを左右する重要なポイントであったかがわかります。


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