ところが、イネの品質改良や増産を主な目的とした農業政策を全国規模で実施したとはいえず、むしろイネ以外の畑作物やアワ、ヒエ、ムギなどの栽培を奨励しました。そして、各地方に派遣された国司が直接、農業指導にあたったようです。こうしたなかで冶水・灌漑技術の進歩、弥生時代以降に導入された鍬、鎌などの鉄製農具の普及により、耕作地が乾田にも拡大しました。大和朝廷は強力な権力を背景とし、班田収授制にもとづく農民の経済的な支配を確立します。水田稲作は日本の社会のなかで、ますます経済的・政治的にも重要な位置を占めるようになるのです。
大和朝廷による班田収授法の制定(7世紀中頃)は、全国各地の国有水田を国民の1人ごとに一定面積の口分田として与え、田籍(でんせき)とよばれる帳簿に登録するものです。収穫の一部を田祖税の一部として朝廷に納めることを義務づけ、その比率は1町(=10反)あたり15束のイネの穀(こく)に相当しました。当時の栽培技術からすると、イネ1束は穀で1斗5升に相当します。また、おのおのの国は米の生産量によって評価されるようになり、この頃から、米作を通じての国家の経済統制が定着するといえましょう。租以外に庸(よう)・調(ちょう)とよばれる税として手工業生産品、海産物などを上納し、あるいは労役奉仕が義務づけられました。
平安時代の延喜式(えんぎしき)にみられるように、納められた租は新嘗祭(にいなめさい)、大嘗祭(だいじょうさい)といった宮中における祭祀とともに、宮中に仕える人びとの給与や食料として用いられました。後に墾田永年私財法によって水田の私有化が認められるようになると、豪族、貴族、寺院などによる水田の私有化がすすみ、これが中世の荘園の基礎になります。律令時代における班田収授法は、11世紀半ば以降実質的に衰退してしまうのです。
中世においても、荘園の領主は年貢として農民から米とともに、ムギ、アワ、ヒエなどの穀物、各地の特産品や手工芸品を税として上納させました。こうした租税制度には基本となる台帳が必要となり、中世の荘園制度とその後の戦国時代においても、律令時代の田籍と同じような土地、人民調査がおこなわれました。後に全国一律の統一した基準で実施されたのが、いわゆる太閤検地です。
天下統一後の豊臣秀吉による検地は、各々の村の耕地一筆ごとに面積を計測し、課税の基準としての玄米標準収穫量、すなわち石高(こくだか)をきめました。そして、その土地を耕作する権利とともに、その土地の年貢を負担する義務を負う百姓を決めました。
江戸幕府は、検地制を継承して近世における幕府体制を確立しました。検地に基づく石高制においては、水田だけでなく畑や屋敷地も米の収穫高にくみ込まれて換算されました。武士の身分は、この石高の量できめられ、各藩ごとの石高もきまっており、百姓の場合も土地を持つ者(高持百姓)と土地を持たない水呑百姓とに区別されていました。また村ごとには村高もきめられたのです。
このように、米の生産高に応じた経済的収奪と身分階級制の固定化により、封建社会が維持されていたのです。
領主は、百姓から税金としての年貢米を上納させ、その米を家臣に俸給としたり自らの食料としても利用する一方、米を市場に売ることで必需品を入手するという方法をとっていました。藩が販売する米は大坂を中心とした蔵屋敷に集積され、米問屋(こめといや)を経て販売されていました。
このように、領主や藩は徴収した年貢米を販売してそれを財源としたため、米の卸売りをする米問屋が、米の大集散地である江戸や大坂、地方の港町を中心として発達しました。米問屋だけでなく米の流通、輸送をおこなう商人がでて豪商も生まれます。豪商とよばれる者のなかには、海運業、呉服商、各種問屋、両替商などを営み経済的な実権をもつものも多かったのです。こうした商人は、金融の返済や物資の購入には米を利用することができました。
米を税金として納める制度は明治初期に地租改正により廃絶され、かわって土地収益から算定された地価の100分の3に相当する税を貨幣で納めることが義務づけられます。とはいっても、それは地主から国への上納が米から金になっただけで、小作人から地主への税金の納入は依然として米でした。こうした制度が全くなくなるのは、戦後の農地改革まで待たねばなりません。
すなわち、米が日本の経済史のなかで占める位置は非常に大きく、税の徴収はごく最近まで米でおこなわれていたのです。