灌漑の灌と漑はともに「水をそそぐ」という意味のことばです。水田稲作に限らず、水の供給は農業全般にとって極めて重要な技術的問題であり、日本では、ため池や河川から水田に水をひく方法がいち早く用いられてきました。天水をもっぱら利用する東南アジアの水田稲作とは、この点が顕著に異なるのです。 初期の水田稲作においては、技術の未熟さから水の入手しやすい低湿地、山麓地帯や山間の平地が利用されていたようです。すでに、北九州の縄文時代の水田遺構には、排水溝・畦・畔(くろ)などが整備されており、灌漑が当時から水稲栽培に不可欠な技術として実施されていたことがわかります。 ため池をつくり、河川と水田とを結ぶ用水路を建設し、さらに水田に畦をつくるためには、共同労働と土木技術が必要でした。また、それらを維持・管理するため一定の権力と統制が不可欠だったのです。 初期の水田稲作においてさえ、ひと家庭ではとうてい作れないような規模の灌漑設備があり、集団の指導者のもとに作業が進められたと思われます(図3-1)。とはいっても、日本中どこででも、菜畑や板付にみられるような灌漑をともなう水田耕作がおこなわれていたのではありません。灌漑を必要とせず、天水だけに依存する耕作、手で畔をつくるような小規模な方法もおこなわれていたようです。
統一国家の大和時代には、畿内地方を中心に、非常によく整備された灌漑施設と整然とした水田がつくられています。こうした灌漑設備をつくりだす土木技術は、当時の巨大な前方後円墳にみられるように、国家権力を背景とした集中的な労働力と高度な土木技術により、はじめて可能になったのです。 一方、中央政府から地方に派遣された国司は、任地でイネの耕作方法や野菜の栽培方法、ブタやニワトリの飼育方法を領民に教えたのです。池や堰を築造し、水田耕作に必要な灌漑設備の整備拡充につとめ、当時の国司は、灌漑技術を各地に伝えるという重要な役割をになっていました。現在でも、全国各地にのこっているため池のなかには、造成時期を大和政権時代にまでさかのぼれるものもあります。 古代の律令時代と戦国時代以降には、大規模な水田開発がおこなわれたのに対し、中世では、著しい耕作地面積の増加はみられません。 もっとも中世初期には、すでに8世紀には一応の完成をみた灌漑技術を継承し、大規模な開発がおこなわれていましたが、河川からひく用水溝が非常に長いために途中で分断したりため池が破綻したりと、一般に「かたあらし」と呼ばれるような耕作地の荒廃が頻繁におきてしまいました。 小領主が分立するようになると、自分の支配領域を越える大規模な灌漑・治水を避け、むしろ小規模な地域内での修復をくり返すことで、それまで荒廃していた耕地がしだいに安定化するようになりました。このほか、鎌倉時代には、関東地方、とくに武蔵国を中心とした荒地の集中的な開発が、幕府の手によりおこなわれるようになります。
このように、中世では小規模な灌漑が主流であり、中世末期から近世にかけての戦国時代は、城や陣地の造成あるいは鉱山開発が盛んにおこなわれ、そのさいに用いられた土木技術が、灌漑設備をつくるうえでおおいに活用されました。そして、平地や大河川流域における沖積平野の水田化が、戦国大名により積極的に推進されたのです。 いわゆる新田開発が積極的に進められるようになったのは、17世紀以降のことです。16世紀末には、耕地面積が全国で150万町歩、米の生産量は約1800万石程度しかなかったのが、18世紀前半の元禄ならびに享保時代になると、耕地面積が300万町歩、生産量も2600万石に達しています。こうした耕地の拡大にともなう米の生産増加は、灌漑技術の進歩によるところが大きいと思われます。