かつての日本の家屋には、専用の食堂はありませんでした。料理を並べた膳を据えた場所が、即、食堂になるという格好で、しかも、部屋そのものが普段の間と客間に分かれていたので、奥の間は来客の時か、何か特別のことがある時に使いました。通常は、台所や囲炉りにある板の間で食事を摂っていました。
今から1200年ほど前の平城京跡から出土した食器や食具の中に、ひのきで作られた折敷(おしき)がみつかりました。折敷は今もお茶事などで使われる足のない膳のことです。この折敷に料理を並べて使っていたわけですが、庶民はムシロやゴザで作った、ランチョンマットに似たものを使っていました。宮廷における儀式の場合には案(つくえ)を使いました。夏の宴会の時はハスの壮(さかり)葉を膳にしたことがあったことが万葉集に記されています。
平安時代になると、貴人達は高杯(たかつき)を用いるようになります。折敷の四方に、宝珠形の穴をくり抜いた台をつけた衝重(ついかさね)が出てくるのもこの時代です。宴会の場合は案や机を用い、スツールに坐ることもありました。室町時代になると、衝重は三方とか供饗(くぎょう)と呼ばれるようになり、折敷に足をつけた脚打ち折敷が生まれ、それが膳の原形となります。脚の部分が蝶や猫足といわれる膳、またはスマートなデザインである宗和膳が生まれるのは、近世、江戸時代です。
しかし、庶民の場合は近世に入っても膳を使うのは何か特別の時だけでした。一般に用いられていたのは箱膳です。箱や引き出しの中に個人所有の器や箸をしまうようになっていて、食事の時にふたを返して器を並べます。もともとは、禅院で使われていたのですが、手軽さがうけて農家や商家や工人の家で広く使われるようになりました。
卓袱台(ちゃぶだい)という丸や長方形の足つきの低い食卓が普及するのは明治の中頃です。足が折りたたみ式になっていて、中央に七輪という炭を燃料とするコンロをいつでも組み入れ、すきやきができるように設計されたものもありました。これは主に関西で使われました。その原形になったのは、江戸期・元禄の頃から長崎を中心に流行った卓袱(不精進)や普茶(精進)料理を並べる食卓でした。
専用の食堂が家庭に定着するのは第二次世界大戦以後、昭和30年代からのことで、これと軌を同じくするように食卓と椅子というスタイルが普及し、今日にいたっているのです。
いったい、これらの折敷や膳に並ぶ料理の数は通常どれくらいだったのでしょう。平城京跡出土の食器セットをみると、基本は飯椀、皿の一汁一菜だと思われます。位の高い人たちでもせいぜい2〜3菜。平安末期の村の長(おさ)の食事図をみると、ふちのない折敷の上に、飯・汁がそれぞれ一つと菜が三つ並んでいるので、どうもこの一汁三菜という組み合わせが、日本人にとって最良のものとの考え方が定着し、室町時代になると五器(ごけ)盛りという形式が生まれます。後に、これを本膳と呼ぶようになりました。