日本での酒造りは稲作とともに始まり、今日まで発展してきました。初めのうちは、口の中に米の飯を入れ噛んで酒船や壺にはき出し、米や雑穀のでんぷんを糖化して発酵させていました。スターターとして噛む女性のだ液が利用されました。一般に女の人が噛んで作るといわれていますが『大隅(おおすみ)国風土記』の中に、大隅国では一軒の家に水と米とを用意して村中に知らせにまわり、男と女とが一か所に集まって米を噛んでは酒船にはき出し帰る。酒が発酵して香りがついてくる頃に、また集りその人達で飲み、この酒を口噛(くちもみ)の酒と呼ぶとあります。別に糀を使って発酵させる技術もありました。おそらくこれは朝鮮半島から伝わった新しい技術でしょう。『古事記』の応神天皇の条に「泰造(はたのみやつこ)の租、湊直(あやのあたえ)の租、また酒を醸むことを知れる人、名は仁番(にほ)、亦の名はスズコリども」が来朝したとあり、彼が天皇に献上した酒を飲んで朗らかになり、
須須許理(すずこり)が醸みし御酒に我酔いにけり
事無酒笑酒(ことなぐしえぐし)に我酔いにけり
とうたっています。ついでにいうと、スズコリは酒を絞ったあとの酒糟に塩漬したウリ(古代朝鮮語)をつけることも伝えています。瓜の糟漬で、のちに奈良漬と呼ばれます。