五世紀に朝鮮半島からの渡来人、醸造技術者であるスズコリによって酒糀を使った新たな醸造技術がそれまでの醸造技術に加わり、味酒(うましさけ)が造れるようになり現在の日本酒造りの原形ができあがったものと思われます。
万葉の頃の酒には「白酒(しろき)」、「黒酒(くろき)」、「清酒(すみさけ)」、「濁酒(にごれるさけ)」、「赤酒(あかさけ)」、「難酒(かたさけ)」、「新酒(あたらしさけ)」、「古酒(ふるさけ)」、「糟湯酒(かすゆざけ)」と呼ばれるものがありました。「白酒」は、できあがった酒を荒目の布で作った袋で手絞りにし、粕を取り除いたものといわれています。したがって白っぽく濁っています。「黒酒」は、白酒に「くさぎ」とよばれるクマツズラ科の低木の根を蒸し焼きにしてできた灰を混ぜたものという説があります。「清酒」は現在の清酒のように透明度の高い酒ではなく、白酒の上澄み液のことでしょう。「濁酒」は今でいうどぶろく酒のことで、粥状をしています。白酒になる前の酒です。「赤酒」は形成質層にタンニン系の色素を持った赤米で作った酒で、淡い桃色を帯びますが、すぐに褐変します。「新酒」は今の新酒(しんしゅ)と同じ。「古酒」はかなり年月の経った古い酒のことです。たぶん、この頃も新酒が尊ばれたと思われます。
「難酒」はできの悪い酒で、すでに酸っぱくなったものでしょう。当日火入れをする技術はありませんでした。この難酒が酢になるのです。上質の酒が造れた年は上質の酢が造れるといういい伝えはまさにむべなるかな。吉酢という字がすでに平城京跡から出土した木簡にあります。「糟湯酒」は白酒をとった後の粕に湯を加えて作ったもので、香や味、アルコール度数の低い酒です。万葉集に「…堅塩を取りつづしろひ糟湯酒(かすゆざけ)うちすすろひて咳(しわぶ)かひ鼻びしびしにしかとあらぬ髪かき撫でて…」と山上憶良の「貧窮問答(ひんきゅうもんどう)の歌」にあるとおり、貧乏な人の飲むわびしい酒でした。
また『万葉集』に「験(しるし)なき物を思はずは一杯(ひとつき)の濁れる酒を飲むべあるらし」(巻3)と歌われていますが、それは思いだけで、一般大衆は盃を手にすることが少なかったのです。せいぜい祭礼の時の濁り酒か酒粕を湯でときのばした糟湯酒が精一杯で、ちびりちびり飲む酒ではなかったのです。
酒造りが事業として盛んになるのは鎌倉時代からです。室町時代の応永の末年には、京都の酒屋の数は342軒もあったそうです。そのうえ寺院でも酒を造り売っていたといわれます。安土桃山の頃、奈良は興福寺の子院である多聞院では火入れをする技術を駆使し、酒の日持ちを良くしました。世界最初の酒の殺菌の技術です。
近世になると京都以外でも造られるようになり、江戸末期には伊丹や灘、池田の酒が江戸で賞味されるとともに、製法技術も進歩し清酒の質が向上したのです。酒が普段の生活でも飲めるようになるのも、この頃からです。
「おみきあがらぬ神はなし」と俗説にあるように、酒は神事、祭事には欠かせません。荒ぶる神を鎮め、和神(やわらぐかみ)を迎えるために酒を供え、人も飲んで祭りの異常な興奮にひたり、神と人とが仲良くなる、それは結局、祭りに参加した人びとが心をひらき、相むつみ、相親しむことによって協同結束する機会になるのです。酒がその仲介役を司どっているのです。その流れが、新入社員歓迎会や結婚式での杯交換という形で、今に伝承されています。